会社概要
社名 ドリーム・ラヴァー株式会社
所在地 〒063-0823 札幌市西区発寒3条4丁目2番1号
設立 2017年5月
代表者 紀國 聡
事業内容 マルシェ企画・運営/自然体験ワークショップ企画・運営・講師派遣/ITシステム開発/
シェアキッチン運営/カウンセリング
所在地 〒063-0823 札幌市西区発寒3条4丁目2番1号
設立 2017年5月
代表者 紀國 聡
事業内容 マルシェ企画・運営/自然体験ワークショップ企画・運営・講師派遣/ITシステム開発/
シェアキッチン運営/カウンセリング
A person who named us is Kiyoshiro
『ドリーム・ラヴァーCo.』 名付け親は、日本を代表するロックン・ローラー、故忌野清志郎氏。
歳の離れた兄の影響で、ジミヘンやツェッペリン、クラシックロックを子守唄に育った、ドリーム・ラヴァーくらし部部長の雪子。
ロック漬けの青春時代を送って来た雪子にとって、RCサクセション、忌野清志郎のうたは無くてはならない心の支えでした。
青春時代が終わり、世間からは「いい大人なんだから」と言われる年齢になってもオトナになれなかった雪子。
「わたしが認められないのは世間がわたしを理解出来ないからだ」
「受け入れられないのはわたしがまだ本気出してないだけ」 などと全力で中二病をこじらせていた時(当時26歳)に、 清志郎が自宅の地下にスタジオ『ロックンロール研究所』を設立することを知ります。
『ロックンロール研究所』のネーミングの妙や、「全部自分でやってしまう」姿勢に撃ちぬかれた雪子は 当時入っていた「忌野清志郎ふぁんくらぶっ」に手紙を出します。
「わたしにも会社名を命名して欲しい」と。
もちろん、会社なんて立ち上げる予定はなかったですし、 実際には、現実逃避に「会社をやめて自立する」とほらを吹いているだけのフリーターでした。
それでも清志郎は名前をつけてくれたのです。雪子のために。
いくつかの候補はあったものの 「ドリーム・ラヴァー」、それだけが心に残っていました。
いつか本当にその(会社を設立する)ときが来たら、使わせてもらおう。
そうして何年も経ちました。
会社設立どころか人並みの生活もろくに送れない日々。
そんな折に、清志郎と直接話す機会がありました。
握手をしてもらいながら、命名してもらった者です、と自己紹介すると 「あぁ。その後、がんばってる?」とシャイな笑顔をむけてくれました。
とてもじゃないけど普通の生活もろくに送れていない、とは言えず 「はい!おかげさまで!!」と嘘の笑顔で嘘の答えで返事をしました。
「これからもがんばってね!」ぎゅっと手を握ってくれた清志郎。
嘘をついた。 清志郎に、神様でもある清志郎に嘘をついた。
このことは、後々ずっと雪子の後悔になりました。
そうしてまた何年も経ち、 自分の店を持つ機会もやって来ましたが 『ドリーム・ラヴァー』という名前の重さに自分が耐えられず その度に見送ることになりました。
何年も経ち 清志郎はついに、肉体を離れ、帰っていってしまいました。
清志郎が居なくなって ますます後悔は大きくなりました。
嘘をついたこと。
清志郎が生きている間にいただいた名前をつけられなかったこと。
後悔の思いから「ドリーム・ラヴァー」のことは封印し、心の中にしまっておくと決めました。
そうしてまた何年も経ちました。
自分の店はたたんで
全く違う人生を歩み出し
結婚して
いよいよそんな名前のことも忘れそうな日々だったのですが。
あるとき、「いつか、今の会社をやめたら」「自分で会社を設立したら」という夫との会話のなかで 「実は、もう会社名は決まってるんだー」と 「清志郎に、『ドリーム・ラヴァー』っていう社名をつけてもらっているんだよ」と 夫に語っていました。
それから数年 夫が勤めていた会社を退職し、自分の会社を設立することとなり、 「いよいよ『ドリーム・ラヴァー』の名前をつけるときが来たね」。
夫の言葉に感動して雪子は泣きました。
まさか、愛する夫と一緒に『ドリーム・ラヴァー』の名前を使えるなんて!!
以前は重く感じたこの名前も、今では堂々と使える自分になっていました。
ドリーム・ラヴァー。
夢の恋人。
たくさんのことを教えてくれた清志郎。
なかでも雪子が一番清志郎に教わったのは いつまでもどこまでも「自由であること」「自分自身であること」でした。
そして 清志郎が最期まで叫んでいた
「LOVE&PEACE!」
「愛と平和!」
わたしたちはこの言葉を企業理念として活動してまいります。
清志郎にもらった『ドリーム・ラヴァー』の名に恥じぬように。
誇りを持って。
歳の離れた兄の影響で、ジミヘンやツェッペリン、クラシックロックを子守唄に育った、ドリーム・ラヴァーくらし部部長の雪子。
ロック漬けの青春時代を送って来た雪子にとって、RCサクセション、忌野清志郎のうたは無くてはならない心の支えでした。
青春時代が終わり、世間からは「いい大人なんだから」と言われる年齢になってもオトナになれなかった雪子。
「わたしが認められないのは世間がわたしを理解出来ないからだ」
「受け入れられないのはわたしがまだ本気出してないだけ」 などと全力で中二病をこじらせていた時(当時26歳)に、 清志郎が自宅の地下にスタジオ『ロックンロール研究所』を設立することを知ります。
『ロックンロール研究所』のネーミングの妙や、「全部自分でやってしまう」姿勢に撃ちぬかれた雪子は 当時入っていた「忌野清志郎ふぁんくらぶっ」に手紙を出します。
「わたしにも会社名を命名して欲しい」と。
もちろん、会社なんて立ち上げる予定はなかったですし、 実際には、現実逃避に「会社をやめて自立する」とほらを吹いているだけのフリーターでした。
それでも清志郎は名前をつけてくれたのです。雪子のために。
いくつかの候補はあったものの 「ドリーム・ラヴァー」、それだけが心に残っていました。
いつか本当にその(会社を設立する)ときが来たら、使わせてもらおう。
そうして何年も経ちました。
会社設立どころか人並みの生活もろくに送れない日々。
そんな折に、清志郎と直接話す機会がありました。
握手をしてもらいながら、命名してもらった者です、と自己紹介すると 「あぁ。その後、がんばってる?」とシャイな笑顔をむけてくれました。
とてもじゃないけど普通の生活もろくに送れていない、とは言えず 「はい!おかげさまで!!」と嘘の笑顔で嘘の答えで返事をしました。
「これからもがんばってね!」ぎゅっと手を握ってくれた清志郎。
嘘をついた。 清志郎に、神様でもある清志郎に嘘をついた。
このことは、後々ずっと雪子の後悔になりました。
そうしてまた何年も経ち、 自分の店を持つ機会もやって来ましたが 『ドリーム・ラヴァー』という名前の重さに自分が耐えられず その度に見送ることになりました。
何年も経ち 清志郎はついに、肉体を離れ、帰っていってしまいました。
清志郎が居なくなって ますます後悔は大きくなりました。
嘘をついたこと。
清志郎が生きている間にいただいた名前をつけられなかったこと。
後悔の思いから「ドリーム・ラヴァー」のことは封印し、心の中にしまっておくと決めました。
そうしてまた何年も経ちました。
自分の店はたたんで
全く違う人生を歩み出し
結婚して
いよいよそんな名前のことも忘れそうな日々だったのですが。
あるとき、「いつか、今の会社をやめたら」「自分で会社を設立したら」という夫との会話のなかで 「実は、もう会社名は決まってるんだー」と 「清志郎に、『ドリーム・ラヴァー』っていう社名をつけてもらっているんだよ」と 夫に語っていました。
それから数年 夫が勤めていた会社を退職し、自分の会社を設立することとなり、 「いよいよ『ドリーム・ラヴァー』の名前をつけるときが来たね」。
夫の言葉に感動して雪子は泣きました。
まさか、愛する夫と一緒に『ドリーム・ラヴァー』の名前を使えるなんて!!
以前は重く感じたこの名前も、今では堂々と使える自分になっていました。
ドリーム・ラヴァー。
夢の恋人。
たくさんのことを教えてくれた清志郎。
なかでも雪子が一番清志郎に教わったのは いつまでもどこまでも「自由であること」「自分自身であること」でした。
そして 清志郎が最期まで叫んでいた
「LOVE&PEACE!」
「愛と平和!」
わたしたちはこの言葉を企業理念として活動してまいります。
清志郎にもらった『ドリーム・ラヴァー』の名に恥じぬように。
誇りを持って。